ぼくののうみそ-・x・

築地市場に響く爆発音の謎
度々書いている通り俺は築地市場青果部門の卸に就職したものの早起きが辛くて2年でやめた根性ナシなのだが、そんな僅か2年間であっても思い出は強烈で、「男の戦場」と呼ばれ、早朝からハイテンションな男たちがワーキャー叫んでいるとても活気のあったあの場所を振り返るととても楽しく、今では市場に就職したこと(すぐにやめた事も込みで!)は本当にいい判断だったと思っている。

市場のセリのときにセリ人が言ってる意味不明の言葉は符丁(ふちょう)というのだが、あれも人によって発声が全く異なり、聞きなれていないとすぐには理解できないのが実際のところだ。
例えば魚市場と青果市場は符丁が少し異なり、もっというと青果でも野菜、果物では説明が難しいが「ノリ」が微妙に違ってくる。
さらにセリをする人それぞれでまたクセがありクセの強い人の符丁もはや理解不能な感じなのだが、結局あるセリには大体同じ人しか来ないので長年の慣れでみんな「覚えて」いくのが実際のところである。

符丁のみならず、セリであがって行く値段の上げ幅もセリの種類によって全く異なる。
結局数字をあらわす符丁は1〜99まで表現するに過ぎないので、例えば1,000円も10万円も同じ「1」か「10」を示す符丁で表されてしまう。相場感のわからない人がフラっと日ごろいかない商品のセリに混ざったとしても幾らなのか分からない事もあると聞いた。

以前すしざんまいが1億円オーバーのマグロをセリ落としたニュースを見ながら感じたのは、ケタが1億まで上がるには絶対に符丁じゃなくて口でどこかで一旦セリが中断するなどして「1億?」みたいな口頭の確認のやり取りが行われたんだろうなということだ。あそこまで異常に高騰した場合、示された「1」ないしは「10」の意味が符丁だけだと全く分からないからだ。

もしくはセリが始まった時点で「1億ジャイ!」とでも言ったのかもしれないが、とにかく基本的には1〜99までしか表現できないので、ケタを上げていくには手っ取り早く「億!!」と言ったのではないかと推測している。
長々と書いたが、結局説明したかったのはセリの符丁にはローカルルールやタイムリーな相場などの要素があり、スタイルも人それぞれという要素も加わり、必ずしも誰しもが聞けばすぐ分かるというものではない、ということだ。

スタイルといえば、築地にいたあるセリ人のスタイルがとても気になっていた。
遠くで眺めていたこの人はセリ中の動きが非常に面白く、リズムを取るようにピョコピョコと絶え間なく体を上下に動かしながらセリをすることと、セリ落とされたときの感情の高ぶりを表現したのか時々「ドッカーーーン!」って謎の爆発音みたいなことをいうので、よく観光客、とりわけ外国人観光客が大爆笑しながら写真や動画を撮っていたのだが、人が真面目に仕事をしているのに何事か!と言いつつも俺も初めて見たときは「感情の大爆発!」などとめちゃくちゃ笑っていたので、Youtubeなどで「Funny Japanese〜」みたいなタイトルで公開されているのではないかと「tsukiji」「seri」「explosion」など検索して、ワクワクしながら探したが残念ながらネットに乗せて全世界に爆発音を届けるあの人を見つけられずに舌打ちしたものである。

で、件の「ドッカーーーン!」なのだが、その後聞いたらこれはなんと爆発音などではなく、数字の「11.5」を表す符丁「ドウグハン」だと知ってしまった。ドウグ(11)、ハン(0.5)で11.5。115円にも11,500円にもなるのは先ほどの説明どおりだ。
まあよく考えると当たり前の話だが、ドッカーンって言っていたのはただ単にセリ落とした金額である「1150円!」と言っているだけだったので妙にガッカリ・・・。まあ今思えば、セリをしながら爆発音を叫んでいると思った俺の神経を疑わねばなるまい。

だけど、全然別の人で明らかに「パキューン!」って言ってる人が居てこればかりはどの符丁にも当てはまらず、マジでパキューン!っていう発砲音を口で言っていたのではないかと思う。「お前が、買えッ(パキューン!)」みたいな。
ネタだと思った人は築地青果部門の関東近在野菜コーナーに是非行ってみてほしい。早起きが辛くて辞めてなければパキューンの人がきっと居るはずである。
早朝から繰り広げられる爆発音に発砲音、これが「男の戦場」と呼ばれる所以なのだろうか。また久しぶりに行ってみたくなった。
| fabricio zukkini | 思い出 | 08:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
利益
前回に続いてゲームの話をするが、小学生の時近所にゲームショップがあり、俺の友達とその弟がそこにソフトを売りにいくというのでついていった事があった。
兄弟が大事そうに持っていたのはジャレコという一度聞くと忘れないダセエ名前のメーカーの緑色のカセットだったと思うが、歯がスカスカのどうみても子供もゲームどちらも好きでも何でもなさそうなクタクタの愛想も何もあったもんじゃないおばちゃんから告げられた買い取り価格がなんと「50円」で友達の弟がショックでその場で泣き崩れたのが忘れられない。
すげえなと思ったのはそれでも泣きながらソフトを50円で売ってたことで、その金で兄弟は帰りにぼんたん飴を買っていたが俺には1個もくれずに二人で食べていたのが悲しかった。

お好み焼きやの二階にあったその店はゲーセンも兼ねており、ゲームを持たない俺としては、中学生にビクビクしながらたった100円だけを持ってたまに遊びに行った程度だったのだが、こうしてソフトが売買されていること、小学生相手にも取引に応じてくれてお金が貰えることなど、色々と驚きがあったものだ。

後日そのゲームショップに行ったという兄弟の兄のほうが、「俺たちから50円で買ったゲームソフトをあの店は200円で売っていた!!」と大いに怒っており、俺も彼らがぼんたん飴を一個もくれなかったことなどすっかり忘れて義憤に駆られ「あの店は子供をだまして金儲けしている!」と言う話を地区別集会という、同じ地域の子供たちが学年を問わず一箇所に集められて行われる集会の場で名前を挙げて非難したものであった。
利益というものの存在を知る前の、悲しい話である。
| fabricio zukkini | 思い出 | 23:38 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
マミーは仲間を呼んだ
最もゲームがしたくてたまらなかった小中学生を通じてずっと親にテレビゲームの類を一切禁じられていた俺は、従って殆どのゲーム知識を友達の家にお邪魔して後ろから羨ましそうに眺めていたあの限られた時間の中で得ていた。

ゲームをやらせてもらうだけの為にさほど仲良くない友達の友達の家まで押しかけるなどして挙句ほぼ無視されながらもゲームをやらせてもらえるチャンスを伺いじっとリビングに座って待つ事もあったが、それでもたまにやりたいというとやらせてくれるケースも多くその価値はたしかにあったのである。
下手くそな俺がゲームし出すとため息やあからさまな冷笑といった子供ならではの残酷な反応もあったように記憶しているが、それ以上に俺はとにかくテレビゲームがやりたかったのであり、全く意に介さなかった。

ただしシューティングゲームやアクションゲームと異なり、RPGではそうはいかなかった。ひたすら他人が進めるだけのゲームを後方から黙って眺めるだけ。ストーリーを進める事もなくレベルをあげる為だけに何もない草原で敵に遭遇とバトルを繰り返すだけであっても黙って眺めていた。
ゲームをやりたいのは間違いないが、そんな贅沢など言ってる場合でもなく、最悪ゲーム画面が見られればそれでよかったのかもしれない。思えば不憫な子である。

俺は当時流行っていたドラクエIIIを全くやったことがないが、ストーリーは友達がやっているのを黙って眺めて何となく覚えている。
鳥山明のキャラクターは特徴的で敵キャラの名前は今でも割と頭に入っているのだが、中でも記憶に強く残っているのがマミーである。
マミーはいわゆるミイラなのだが、マミーの特徴は仲間を呼ぶ事だ。仲間の名前は「くさった死体」、マミーより強くて厄介なこのくさった死体が出てくる前にマミーを殺さねばヤバいなどと友達が力説していたのを覚えている。
くさった死体、今思うと腐ってる癖に仲間思いの良い奴ではないか。呼んだらすぐ来てくれるし。(まさにくされ縁という奴だろうか。)
かたや俺の友達はどうだ、仲間が後ろで仲間になりたそうにじっと見ているというのに放ったらかしでRPGですかい。など、自ら勝手に押し掛けておいてアレだが、この様に自分本位な逆恨みもくさった死体の仲間を思う気持ちを前にすれば少しはしたくなるというものである。
くさった死体によって友達のパーティーが全滅したときに感じた爽快感はこの辺からくるものだったのだろうか。
そんな訳でドラクエの、マミーとくさった死体という敵キャラは一度もやった事もないドラクエの中でなぜか今でも印象の強いキャラクターとして残り続けている。

随分とマミーに関する説明に時間をかけてしまったが、なんと、実はここからが今回の本題になる。
話はその後十ウン年後、東京にいた時に入ってた社会人バスケットサークルでの話。
そのメンバーの親戚の子で、間宮くんというとても素朴な高校一年生がある時からチームに入ってきて、アラサー、アラフォーひしめくサークル内でひと際若々しい彼はすぐさまみんなからマミヤをもじってマミー、マミーと呼ばれ愛されるようになったのである。
で、そんな彼には時々連れてくる同じ高校の同級生がいて、もうお分かりかと思うが、俺はもう本当に悪いとは思いながらも陰でそのお友達の事をマミーが呼んでくる仲間という事で「くさった死体」と呼んでいたのである。
くさった死体はマミー以上に素朴な高校生で、無口な中にも秘めた熱い闘志が垣間見える線の細い高校生。
ドラクエと同様、マミーに呼ばれないと現れる事はなかったので遭遇率は低く、結局一言も会話する事はなかったが、罪悪感もあり今でも記憶には強く残っている。

今ではもう離れてしまったバスケットチームではあるが、マミーとくさった死体、二人ももうすぐ大学生か。元気なのだろうか。
俺も誰かのくさった死体でありたいと思う34歳の春である。
| fabricio zukkini | 思い出 | 23:50 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
お前のMA-1はニセモノだと言われ
最近街を歩くとMA-1を着ている若者をよく見かけ、懐かしい気持ちで眺めている。
流行に鈍感な俺でも、ここ最近80年代末〜90年代のファッションがリバイバルしているのは街中を歩けば気づくことであり「ああ懐かしいなあ」と思う反面、いくら流行とはいえ昨今のファッションはかつて無く着るものを選ぶものではないのかと思う次第で、若者の中には一定数必ずいる「あえてそうする層」でもない、ごく一般の若者ですら完全にコメディアンのようなナリをしているのを見るにつけ極めて居た堪れない気持ちになる悲しみのジジイである。
いつの時代でもそうだが、我々ブス、ブサイク諸兄姉にとって、流行のファッションの激戦地にドップリ身を投じる事は、戦力差がありながら逃げ場の無い同一ルールを強いられた悲しいハンデマッチを戦いに行く無謀な特攻行為に他ならず、一度立ち止まり鏡を見るなどして少し考え直して欲しいと思う。

で、話をしたいのは若者という雲の様な存在へのジジイ特有の「いかがなものか」トークじゃなくて冒頭申したMA-1である。ボクはMA-1の話がしたいんである。
MA-1には懐かしい響きがある。MA-1、M2-B、M3-Bなどといわゆるミリタリージャケットの類は、先に書いたとおり80年代後半〜90年代、まさに俺が小学生の頃に流行をし、あの頃の小学生ファッションにも大きな影響を与えたアイテムである。
忘れもしない小学四年生。初めてファッションの流行というものを意識し、「ぼくもほしい!」と強く願った服がMA-1だったのだ。

今思えば、あの時分、MA-1を最初に着始めたのは兄が居るマセた連中か、親がやたら子におしゃれをさせたがるご家庭のご子息だったと思う。
緑、黒、灰色といったミリタリーあるあるカラーのジャンバーがクラスの比率を埋めていく中、まだチャイルドだった俺でも流行っていると気づいたしその流行に乗りたいと思ったもの。
結局小学4年の冬はMA-1を買って貰えずにMA-1っぽさのかけらも無い母親のお下がりの、表は黄緑で裏地が黄色のやたらワッペンが沢山ついているWINKとかがPVで着てそうな謎の80年代ジャンバーを着てしおらしく通学した俺であったが、翌年の冬が近づく頃にはMA-1を強く渇望する事となったのである。

MA-1が流行するに従い、学徒動員さながら、小学校の高学年の半分近く、少なく見ても1/3はMA-1を着ていた気がする。
そんなMA-1大量発生と同時に、「MA-1のニセモノ」と呼ばれるシロモノが多数登場し、その見分け方が周知されるようになった。
そもそも、おうちがお金を持っているやんごとないご家庭については、一目見て分かる「AVIREX」の文字や「U.S AIR FORCE」といった、意味は分からないながらも何となく凄そうな「英語のお墨付き」の様なものがついていたのであるが、それ以外の庶民用は完全無地でMA-1たる証拠としては「裏地がオレンジ」という事ぐらいしかなく、そういう見分け方を設けなければ無地のMA-1には明確な違いが無かったのが実際のところである。
従い、増え続けるMA-1人口に対し、元々MA-1を着ていた層が自らの地位を守るため、半ば言いがかり的な感じで提唱しだしたのが「ニセモノ」の実際のところだと考えられるが、そもそも論として、佐世保で米軍払い下げで買った様な米軍のお墨付きでもなければニセモノも何も一律みな同じ「MA-1タイプブルゾン」で仲良くすれば良いはずなのである。

MA-1のニセモノ理由は色々あったが、二の腕の弾入れ用ポケットにダミーの弾丸が無いとか、裏地(オレンジ側)のポケットのボタンに色がついてないという具体的なご指摘はまあ許すとして、綿の量が少ない!とか、色ツヤがおかしい!などと言ったかなり主観的なイチャモンも登場した上、さらにはユニクロやスーパーで買ったものはすべてニセモノなどという流通面に言及するイカレポンチまで登場する始末。
こうして「綿が少ない!」とか「あそこにホンモンのMA-1が売ってあるわけが無い」いう理由で気に入らないヤツのMA-1をニセモノ認定するのがMA-1警察の目的であり、俺も翌年念願の緑色のMA-1をゲットしたものの、大分後発であったからこのMA-1警察の検問に引っかかり、お母さんが買ってきてくれた貴重な俺のMA-1は「綿が少ない」などとイチャモンを付けられてニセモノの様に扱われたものである。あの屈辱!

そんな訳で俺の中でのMA-1の流行はニセモノ認定によりあっさり冷めていくことになり、そうした経験が尾を引いているのかあれからもう二度と袖を通すことは無かった。
今リバイバルを果たしたMA-1を着る若者を横目で見るたび、俺は大昔のそんな悲しいエピソードを思い出すのである。

 
| fabricio zukkini | 思い出 | 17:14 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
土曜の朝、六本木から乗ってくる皆様について
20代前半、築地で働いていたときに通勤に使っていたのは大江戸線だった。
俺が乗るのは大江戸線始発。この大江戸線が六本木を通っていることを何度となく疎ましく思ったものだった。

築地は土曜日も開場。従って、土曜日の通勤電車が六本木に停車すると、朝まで遊びまくったの連中が大挙して、また相当に酔っ払ってこの視発電車に乗り込んでくる。
朝帰りの皆々様、一様にテンのションはアゲアゲで声がデカい。寝ている通勤者は六本木でほぼ例外なく起こされてしまう。
土曜の早朝から働く勤労青年が、夜遊びを終えた連中に邪魔をされるわけである。

お楽しみを終えて満足げに家路を目指す皆様をよそに、こちらは死んだ目のまま、朝から地味で辛い、静岡産高級メロン100ケースの荷おろしとシケ込むわけだ。
自分で選んだ道ながら何か社会に対する謎の恨めしさというかヒクツな気持ちが徐々に増幅されて、メンタルの調子が狂いそうになる瞬間であった。

この六本木からの乗客に関しては酔っ払った日本人の集団のタチの悪さにも言及したいが、それにもまして忘れがたいのは外国人のマナー。ほとんどが最低であった。
日本人の乗客に絡んだり、勝手に写真を撮ってきたり、ヒドい輩はオーディオ機器を持ち込み電車内で大音量で音楽を流し始めて踊りだすなどするわけである。
それにはさすがに何か不満を言いたい気持ちは十分あるのだが、あいてはやんごとなき外国人様である。何か意見して良いはずもなく、ただじっと敗戦国なりの慎ましさでそれをやり過ごすのが適切なのである。

ただしある時、日本人と外国人のグループで、欧米人にノせられて必要以上に悪ふざけをする日本人が車内で猛威をふるっていたことがあった。
欧米人の中に入ると途端に他の日本人と差をつけた感を抱くバカチンの典型なのだが、お前それ日本人同士でもやるのかよ、オ?っていうレベルの欧米風悪ふざけで仲間の外国人のウケを狙うJapへの、同じ車内に座る通勤メンたちから発せられる共通の殺意を汲み取った俺は、眠りを妨げられた怒りと、普段外国人相手では言えなかった色んな不満を込めてこの迷惑外交官殿に一言二言三言ぐらい文句言ってやらァヨオと思い、もうじき降車駅の築地市場駅に着きそうな頃合でもあったので、いざとなったら逃げられるし、とその日本人の元へ揺れる電車にヨロヨロしながらもなんとか近づき、「お前らア!E加減にしろゥ!」とイントロもAメモもなく、唐突にそれでいてそれなりに大きな声で叫んだのであるが、そいつに絡んだつもりが痰が先に絡んでいたのか、それとも走行中の大江戸線がやかましいからか!?はたまた先方がいささか飲みすぎだったのか!、、、とにかく残念なことに先方さんは「え?」「お?」と言うおとぼけビーバーぶりで、この俺のアツいメッセージが全く通じないのである。正直あせりました。

とはいえ、発端は勝手な正義感ではあるけれども、こいつらの社会を揺るがすやかましさである。
成敗やァ!と高く振り上げたこぶしがつり革に引っ掛かった様なシチュエーションである格好の悪さもあり、ここで何も成さずに引き下がるわけにも行かず、何度か「△×■◎!!」という様な事を言ったのだが、先方はハテナと言った具合。

そんな問答が数回続いた、そんな時であるが、このクネクネと懐いてくる不思議な日本人は何だろうとでも思われたのか、俺は突然その隣にいたメガネの白人にカメラを渡され「シャシン。」と言われる。

俺は「コクリ」とうなづくと静かに彼らを撮影してあげた。俺は負けたのである。とはいえ、内心ではなんとなく形に収まったので安心しました。
そんな彼らは俺と同じく、築地市場駅で降り、そして築地市場へ向かっていった。

「築地は働くところじゃない、遊びにくるところだ」

彼らの背中を眺めながら、真剣にそう思った大江戸線の朝だった。
| fabricio zukkini | 思い出 | 22:38 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
修正液と黒子
小学生のころ、図工の時間に色のついた画用紙を使った工作をしていたときのことだったと思う。
もう随分昔のことなので記憶の大半が曖昧な状態であるが、今でも鮮明に覚えていることがある。

隣の席にいた女の子が桃色の画用紙に黒ペンで何かを書いている途中、間違ったのであろう、突然修正液でその文字をなぞるように消し始めたのである。
修正液の色は当然白だ。消す対象が白地であることを想定して作られた、何の変哲もない白の修正液なのである。

当然、桃色の紙の上で白の修正液でなぞるように消された文字は、ただ色が白に変わっただけでそのまま読める状態。しかし隣の女の子は「よし」という表情などして、その上に本来書きたかったはずの文字を再び黒ペンで上書きし始めたのである。
彼女にとっては、修正液を用いたというその行為の意味が重要だったのだろう。これを「バカだ」と一蹴するのは簡単だが、これには日本的な趣を感じずにはいられない。

割と大人になってからのことであるが、NHKで視聴率が限りなくゼロに近いと思われる割といい時間の人形浄瑠璃放送を見ながら、俺は気づいたのである。

「あの修正液は黒子だったんだ・・・」

そう、黒子である。
実際にはめちゃくちゃ存在感があるのだけど「本来見えないことになっている」という文化、共通認識、社会のルール、マニュアル、、、そういったアレコレを経て、我々は黒子を「見えない」と認識しているのである。修正液も同じである。修正液は消すものである!という社会の常識があれば、紙の色が白色だろうと桃色だろうと全く関係がないのである。

日本文化において重要なのはその行為であることが多い気がする。
実際に効果がどの程度あるというよりも「その行為を行った」という事実、意味が重要視されるケースが極めて多くはないか。

例えば、掛布雅之の前髪である。
事実上ハゲなのに、前髪を立てていることで頭髪はそこに潤沢にあることになってしまう日本文化の趣。
オイ、何なんだアイツは。潔くハゲろよこの!

掛布が毎月やってくる床屋のことを思うと仕事が辛いなどとはいっていられない。
| fabricio zukkini | 思い出 | 12:00 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
声サッカーを知っていますか
声サッカーというむなしい遊びをやった話をしたい。

声サッカーとは、その名の通り声でプレイするサッカー、そこにはボールはなくプレイする2人が立ったまま「ボールを左に蹴った!」「シュート!入った!」と叫びながら試合を進めていくむなしい遊び。
無論それぞれが違う主張をするのであるが、どちらの言うことが正しいかはデカイ声を出したり、しつこく同じことを繰り返して相手を諦めさせるかにかかっている。
(実際には語彙の関係で「蹴った!」を沢山言い合うトントン相撲みたいなものだったとご想像下さい)

小学生のとき、「ボール」「メンバー」という、サッカーを構成する9割以上の要素がそろわなかったにも関わらず、サッカーに強いこだわりがあったのか友達のミネ君と試しにやってみたらすげえつまらない上、立ってワーワー言うだけなのにムカつくくらいに疲れた思い出がある。

確かその当時Jリーグ開幕して間もない頃、だからと言ってそこまでしてサッカーがやりたかったのか甚だ疑問だが、最後はお約束の「ハイパー・ドラゴンなんとか」「サンダー・クラッシュなんとか」というデコトラみたいな必殺技が炸裂し合うただのファンタジープレイへ突入、とうとうゴールではなく相手を殺すことが目的になっていたので物凄く暇だっただけではないかとも推測される。

この声サッカー、何故か実際にサッカーができる広さのちゃんとしたグラウンドの真ん中で立ってやっていたのだが、子供ながらに臨場感というものを意識したのかもしれない。

グラウンド中央に立ち、妄想の世界の中で激しく戦う2人の少年の叫び声。
あの時の僕らの悲しい後ろ姿を遠くから動画で撮影していた方がいたら連絡下さい。
| fabricio zukkini | 思い出 | 06:57 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
なぜ俺たちは盲腸を恐れていたのか
中学時代がピークだったと思うが、虫垂炎、いわゆる「盲腸」になることを異様に恐れていた時期があった。
いつ痛くなるか分からない不安、そして痛くなるや即手術という恐怖もその理由ではあったが、最大の理由は「看護婦にチンコを見られる」、コレに尽きる。
頼まれもしないのにジャンジャン人前で出していたチンコも、小学6年〜中学2年、第二次性徴期突入とともに成りを潜め、陰毛、いわゆる「チン毛」が繁茂してくると、いよいよそれは何としても隠し通さねばならない秘所になっていくのであった。
中学1年、早々に生えそろった俺のチン毛。
「俺だけかもしれない」「俺は特別早いのかもしれない」というピュアなカラダの悩みは徐々に増幅し、終いには「九州でも上位100人に入ってるかも・・」という割とリアルなカテゴリーで自らを計るシマツ。
繊細にして粗雑、思春期ならではのフクザツな悩みを抱えた男子にとって、その象徴であるチンコの正体を・・・・、よりによって酸いも甘いも、酒も男も白いコナも黒い武器も、何でも知り尽くしたやんごとない看護婦に見破られるというその恐怖がいかばかりだったか・・・!
見えざる敵に震えた少年たちを煽っていたものもあった。ファッション雑誌である。
当時兄の影響で読み始めたファッション雑誌の白黒ページには、同年代のティーン読者から寄せられた「俺たちエピソード」的なものが沢山掲載されていた。
忘れもしない「俺たちの病院エッチ体験」と銘打たれた、ほぼ≪だったらいいのにな≫で埋め尽くされた妄想ストーリー満載のコーナーに、やはり盲腸エピソードがあった。
少年はそれに引き込まれ、そして盲腸の恐怖はそこで完全なものになったのである。
そこで見たストーリーは2つに大別される。一つ目がチンコを笑われる話、もう一つが不覚にもイっちゃう話である。
色んな雑誌でも似たような話をみたが、ほとんどがこれに集約される。確か以下の感じだったように思う。
****
≪エピソード1≫
麻酔の効きが悪く、手術前に朦朧としながらもうっかり目を覚ましてしまったボク。
そこで聞いてしまったのは看護婦さんたちの会話!
「あの子のチンチンみたぁ?」「みたみた!」「かわいいワネ、ウフ!」
2週間後、お年玉をはたいたボクは包茎手術の手術台にいた・・・!(チャンチャン)
≪エピソード2≫
おばちゃん看護婦にチン毛を剃られることになってしまったボク。
おばちゃんなら安心だと思ったけど、そのおばちゃん看護婦ときたらミョーにチンコの扱いがイヤらしい!
不覚にもボッキしてしまったグソクをなおも縦横無尽に動かしまわすおばちゃん看護婦!
や、やめ・・・!
「僕は射精した!」(チャンチャン)
****
ディティールを突っ込めば色々とおかしな部分はあるが、あの当時これを見て真剣に悩んだのは間違いなく、そしてそんな少年をもてあそぶかのように「盲腸手術を我慢しすぎた結果、盲腸が破裂して死んだ少年」なんていう残酷なストーリーでもって、アノ恐ろしい盲腸という名の戦場へ駆り立てるワケである。大人ってのはなんてヒドイのか。
「貝を食べると盲腸になりやすい」という情報を聞いては、食卓にでた貝の味噌汁を黙殺して親にキレられ、「疲れると盲腸になりやすい」と聞いた夜だけ≪おやすみ≫と無理やり夜9時に寝た。
中学3年、同級生が盲腸で手術したと聞けば、戻ってきた彼にソッと寄り添い≪何もいわなくていいぜ・・!≫と慰め、また、自分の父親が盲腸を我慢しすぎてよくわからないスゲーヤバい盲腸の上位互換のヤツになったときは「不安はごもっとも」と頷いた。
転機は大学時代。
盲腸になったという同級生のもとへ「お前・・・!」と駆け寄る俺に「今は薬で治る」とドライに返され、≪へえ・・・!≫と妙に安心したのを思い出す。長い盲腸の恐怖はそのときようやく去っていったのである。
蛇足ではあるが、そのちょっと前に、当時浦和レッズの小野伸二が盲腸になったというニュースに、「あいつも苦労したな」など、ニヤケつつも妙な親近感を勝手に抱いていた身としては、その後、さかのぼって調べたところでは、彼も薬で盲腸を治したことを知りいささかガッカリしたのを覚えている。
このように、長きにわたって盲腸に対してただならぬ恐怖心を抱いていた俺だが、待てど暮らせどいまだその訪れはなく、本日も盲腸は現役バリバリ、ゼッコーチョーにて、特に何の役にも立たずに俺の体内で切られるを待っている。
(それより最近リアルに胆石が怖いです。)
| fabricio zukkini | 思い出 | 23:34 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
蹴りが強くなりたい
学生の頃1年半生活していた学生寮では、毎年年末に寮生による手作りの文集を作成していた。
各自最低1作、文章の提出が義務付けられており、そのテーマは自己紹介、エッセイ、小説などなど各々自由。

寮OBからの寄稿もあり、従って寮OBにも配布される本文集は、その寮がかつて故郷の藩が江戸に設置した「私塾」にルーツを持つという特異性を理解しないとなかなか理解出来ないほど大切にされる伝統であったように記憶している。
(その後の方向は異にするが、慶応義塾や同志社と興りは同じである)

寮の詳細はさておき、文集である。
当時1年生だった俺は、頼まれもしないのに張り切って3つもの文章を繰り出し、なかなかハイレベルな作品の寄せられる本文集において、1年生にしては稀だという大賞を得る事が出来た。(3つのうちどれが受賞したか記憶に無いが・・)

その景品は商品券となぜか副賞が巨大なミラーボールだったと思うが、その3年後、寮を出て一人暮らしを始めていた高円寺の安アパートの便所に飾っていたこのミラーボールが突如落下、「テメエ逃げやがったな」とばかりに便座をコテンパンに破壊する悲しい事件を起こし震えたのだが、それはまだ後の話。

とにかくまだ若かった頃の話である。
キーボードで打ちさえすれば、どんな内容でも明朝体のキリッしたものが出力される。
どんなにくだらない事を書いても目の前に出てくるA4紙の中では必ずサマになる事に感動した俺は、こうしてある日突然文章を書く楽しさに気付いてしまった。

ネットにも接続していない時代、友達のノートPCのWord文書として誰に見せるでもなく書いた沢山の文章はそのまま消えてなくなったが、文集用として書いたものは幸いにして今も手許に残っている。

元々はあちこちに散らばった自分の文章を一箇所に集める目的で始めたのが本ブログの興り。
果たして狙ったのかどうなのか今更覚えていないが、そのとき書いた3つのうちの一つが妙にシュールなのでそれもここに残しておきたい。



タイトル:蹴りが強くなりたい

私は蹴りが強くなりたい。

蹴りたい物を挙げたい。
まずボールだ。但しただのボールではない。私が蹴りたいのはバスケットボールだ。

私は中学生のときにこのバスケットボールを試合中に蹴ってしまい、酷いファールを与えられた上、男の大人である審判に、与えられたファール以上に酷く罵られた。
貴様呼ばわりされ、バスケットをする資格が無いと言われ、殴られるとか思ったくらい詰め寄られた。

私は訳がわからなかった。
世界最高峰のバスケットリーグのNBAをよく見ていた私はスーパースター達がラインを出たボールを蹴っていたのを見ていたのだ。

つまり、本当に蹴りたいのは審判だ。

蹴りたい場所は腰だ。






あの時はただ「俺様最高」と天狗になっただけだったが、今思うと割とお堅い文集において、入ったばかりの1年生のこうした色物作品に大賞を与えてくれた寮生諸兄の懐の深さにはただただ感謝するばかり。

あれをきっかけに始めた文章はまだ続いて居ります。



| fabricio zukkini | 思い出 | 21:47 | comments(7) | trackbacks(0) | pookmark |
フクオカの乾電池
中学生、高校生の頃、本気で買い物するとしたら隣県福岡の天神に行くしかなかった。
俺の故郷は佐賀県唐津市。幸い福岡・天神からは比較的遠くない場所にあり、ちょっと頑張れば行ける身近な大都会でもあった。

今でこそ高速道路ができ、高速バスで50分、500円(回数券割)ほどで着く距離だが、あの頃は電車で1時間半、片道1,110円という距離・金額を掛けての一大イベントであった。
(電車代を浮かすために4時間ぐらいかけてチャリで行く猛者も居た)

信じられない話だが、中学のときは小遣いゼロ。高校二年まで小遣い1,000円、高校三年で3,000円貰ったときは「大丈夫か」と不安になったほどの清貧少年。金は全然持っていなかった。
そんな俺がお年玉や日々の弁当代を節約し、お釣りを溜め込んで得た1万数千円を握り締めて向かうのが福岡・天神。
だから交通費往復2,220円はかなり高いハードルに思えたし、そんな高い交通費を払ってまで来たのだから・・・・!というプレッシャーでロクな買い物ができなかった思い出しかない。

中学時代、初めて行った天神で唯一俺が買ったのは乾電池だった。
友達と色々と回ったものの、都会に来た緊張感で天性の消極性が本領を発揮し、行く先々でほとんど何もせず、黙って友達の買い物を眺めていた。

だが帰る直前のこと、岩田屋というデパートで突如「乾電池はあっても邪魔にならない」と閃き、俺はなぜか単3の乾電池をおもむろに12個も買った。
別に地元でも買えるシナモノだが、せっかくフクオカに来たのだから・・という気持ちが最後ギリギリで俺に乾電池を買わせたのであろう。
往復2,220円払って福岡で乾電池を買う中学生は、帰りの電車、袋から乾電池を取り出し「フクオカのカンデンチだぜ・・」とブツを眺める。

親に「何を買ったの?」と聞かれて「切符と乾電池」とぶっきらぼうに答えて、それ以上の質問はNoとばかりに俺は部屋へ消えていった。

フクオカのカンデンチはさすがの高性能。佐賀県の乾電池より確か30%ほど長持ちしたはずである。

| fabricio zukkini | 思い出 | 13:42 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |







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